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生きるってどういうこと?強制収容所での生活を綴った歴史的名著「夜と霧」【たつきちの備忘録#5】

夜と霧

大家好!

たつきちの台灣ブログへのご訪問ありがとうございます!

世界史好きとして受験生時代から興味のあった名著「夜と霧」を今週ふと本屋さんで目に入ったことがきっかけで購入し、読んでみました。

夜と霧はナチス時代、アドラーやフロイトなど心理学の巨匠に師事したこともある心理学者のフランクルが強制収容所での生活を綴った作品です。

徒歩での台湾一周も終わり、何かと最近幸せを感じにくくなっていた自分にとって、読み進めて行く度に胸をえぐられるような感覚に襲われました。

そんな「夜と霧」のグッときた箇所を備忘録も兼ねて残していきたいと思います。

カポーは収容所監視兵よりも「きびしかった」

カポーが収容所監視兵よりも「きびしかった」こと、ふつうの被収容者をより一層意地悪く痛めつけたことはざらだった。たとえば、カポーはよく殴った。親衛隊員でもあれほど殴りはしなかった。一般の被収容者のなかから、そのような適性のある者がカポーになり、はかばかしく「協力」しなければすぐさま解任された。

まず始めに衝撃を受けたのが、この箇所。

僕自身、被収容者はナチス親衛隊員(SS)や収容所監視兵によって苦しめられたのかと思っていたのですが、それだけではありませんでした。

カポーとは、元々暴力的な指向が強く、収容者の見張り役にされた人のことです。

カポーの人達は暴力的であるが故に、最低限の生活が保証されたのです。

つまり被収容者は上からの圧力だけではなく、下からの圧力にも苛まれていたことになります。

これは全く知らなかったなぁ。。

第一段階「収容」

人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったがを思わずにいられない。人間はなにごとにも慣れることができるかというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい……。

収容所暮らしでは一度も歯を磨かず、ビタミンは極度に不足していたにも関わらず、以前より歯茎は健康になったり、

かすかな物音ですら寝付けなかった人でも、収容後は耳元で盛大ないびきを聞いても、横になった途端にぐっすり寝入ってしまったりしたそう。

このように実は自分の中では、耐えられないと思っているようなことでも、その環境に飛び込んでしまえば、適応できるのだと感じさせられる場面。

第二段階「収容所生活」

医長によると、この収容所は一九四四年のクリスマスと一九四五年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。

(中略)

この大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには帰るれるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。

唯一の目の前にある希望が失ってしまった時、極限状態だと、死にすら繋がってしまう恐れがあることがわかります。

ここでフランクルはニーチェの格言

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

を引き合いに出すのです。

 

彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしなければならない。ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましい限りだった。

そして、このような生きる意味を失ってしまった人に対して次のように、提言しています。

わたしたちが生きることからなにを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。

(中略)

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。

 

僕は生きる意味をふと考えてしまうことがあります。

そんな時はこの言葉を思い出し、生きることに意味を求めるのではなく、瞬間の人生を自ら味わっていこうと前向きな気持ちにさせてくれました。

「夜と霧」は実際に著者が体験したリアルな視点から、僕たちに「生きる」とはどういうなのかというメッセージを強く伝えてくれる一冊でした。

今後の人生観が変わるかもしれない「夜と霧」、ぜひ読んでみてはいかがですか?

最後までご覧いただきありがとうございました。

以上たつきちからでした。

再見!